黒森神社くろもりじんじゃ

岩手県宮古市山口大4地割字田ノ神132番地

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概要

  • 正式名
    黒森神社(くろもりじんじゃ)
  • 別称
    黒森様
  • 由来・由縁・ゆかり
    古伝によれば、黒森山は、往古から深林松杉等樹木多く、殊に2本の老杉は名木として「夫婦杉」と称され、山嶺からは奇水(霊水)が湧き出すところと伝える。御創建は、人皇十一代垂仁天皇以前と伝え、その垂仁天皇の皇子、是津親王が勅勘を蒙りこの地に左遷され、苦難の日々を過ごした。某年、6月14日、親王は納涼に事寄せて密かにお出かけになり、橋架根島の岩上より、海底に身を投じ、御逝去された。里人達は、これを大いに憂い、早速、御遺骸を捜したが、なかなか見つからなかった。そこで、里人は古老等と相議り、親王が日頃御寵愛だった「鶏」をその船に乗せ、御遺骸を捜すことにした。すると、湾頭にさしかかった処で、不意にこの「鶏」が三声で鳴いたので、不思議に思い、この一帯を入念に捜した処、遂に親王の御遺骸を見つけ出すことができた。里人達は、その葬儀を海浜で営み、御尊体を高貴なお方ゆえこの黒森山上に埋葬した。よって、この墳墓を神社とし、「黒森大権現」と称し、お祀りすることになった。現在、古黒森と言われる場所がその墳墓と伝う。また、「磯鶏」という地名は、この時の「鶏」に因んで名付けられたと言われる。歴史的には、これの外に古伝が諸説あり、南北朝時代の「長慶天皇」の御陵という説などもある。その後、大同二年、坂上田村麻呂将軍、夷賊征伐の途次、当神社を参拝、再建する。史料的には、棟札や宝物類に鎌倉時代から、文献には江戸時代からのものが多く残されている。棟札には、建久元年(1190)黒森参社再興1宇。 元弘3年(1334)第十一代南部信長 造営。応安3年(1370)第十一代南部信長造営。応永11年(1404)第十三代南部守行造営。以下、天文10年(1541)、天正5年(1577)、慶長5年(1600)、寛永17年(1640)、元禄4年(1692)、宝永7年(1711)等があり、代々南部藩主の崇敬が篤く、祭日には藩主に代わり代官が、代拝する慣わしであった。また、宝物には、「建武の鉄鉢」(1337)があり、その鉢の側面には左文字が刻まれている。黒森神社から派生した「黒森神楽」の「権現様」と呼ばれる獅子頭は、南北朝時代のものからほぼ年代順に保存されており、修験山伏による神楽が古くから行なわれていた。現在でもこの陸中沿岸を一年毎に「北回り」「南回り」交互に巡業しており、各家々を御神体の権現様を持って回り、神楽舞を奉仕している。修験山伏の霊場として、元の参道付近に「拝殿ヶ沢」「羽黒坊」「中坊」「柿坊」「大黒坊」「刺学坊」等の地名が残り、宿坊ができるほど盛行を極めていたと言われる。また、源義経公は、平泉より逃げ延び、この地に至り神社に参籠、大般若心経三百巻を奉納したと伝えられる。明治5年、山口村村社に取据、社号を「黒森神社」と改める。中世の芸能や史料の残る宮古地方屈指の古社であり、「境内には老木枝を交え、昼尚暗く、荘厳の気自ら心魂に撤する」と読まれる程、深幽な欝蒼とした境内であった。沿岸を航行する船舶も、この黒森の山を目標にしていたと言われ、これほど山深い処にありながら、広く漁民の信仰を集めて来た神社である。御神徳は、「海上安全」、「大漁満足」、「無病息災」、「家内安全」等、漁業の振興と家庭の平安に霊験あらたかである。

基本情報

  • 名称
    黒森神社(くろもりじんじゃ)
  • 所在地

    岩手県宮古市山口大4地割字田ノ神132番地

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アクセス

所在地


岩手県宮古市山口大4地割字田ノ神132番地