両足院 外観
両足院 本堂
両足院 外観2
両足院 前庭
両足院 茶室
両足院 写経体験
  • 最寄駅
    阪急 河原町
    京阪 祇園四条
    市バス 四条京阪
    市バス 東山安井
    市バス 南座前
    市バス 祇園
  • 開閉門時間
    7:00~17:00
  • 電話番号
  • Web
  • 対応言語

サービス一覧

お食事処

レンタル傘

バリアフリー

ペット同伴可

トイレは2ヵ所あります。ただし、数は少ないのでトイレは、どこかで必ず済ませてからご来院頂きますようにお願いしております。どうしても必要になった場合の緊急時のみ、使用は可能です。

トイレ

授乳

おむつ替え

クレジット
カード可

電子マネー

自動販売機

宿坊

休憩所

石畳/砂利

路面
(舗装済)

周遊時間
(15分以上)

コインロッカー

概要
基本情報
みどころ
⾏事・
イベント
アクセス

概要

  • 正式名
    両足院(りょうそくいん)
  • 宗派
  • 本⼭
    臨済宗大本山建仁寺
  • 本尊
    阿弥陀如来立像
  • 開⼭・開基
    龍山徳見禅師
  • 墓・納骨堂について
    あり
  • 住職
    郁翁東文
  • 建築様式
  • 宗派の開祖
    栄西禅師
  • 由来・由縁・ゆかり
    両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざんとっけん)禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。

    現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。知足院は、龍山徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁(ぶんりんじゅいく)の両足 院・一庵一麟(いちあんいちりん)の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。

    創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。

    改称に関しては、諸説ありますが、一説として、時の天皇・後奈良天皇の諱名「知仁」に触れた事が原因とされています。 以後両足院は、安土・桃山から江戸時代の8世利峰東鋭の代までは主に、饅頭の祖である林浄因の子孫によって、霊泉院は龍山和尚の生家・千葉氏出身の禅僧たちによって、護持されます。なお、霊泉院は、現在は霊源院と改められて今も存続します。

    また江戸初期までは、知足院と霊泉院が輪番で建仁寺開山堂・護国院を守塔していたこともあり、建仁寺開山明庵栄西禅師の直系黄龍派の中心寺院であったことがわかります。

    また、両足院は、室町時代中期まで霊源院と共に、「五山文学」の最高峰の寺院でありました。江戸時代に入っても10世雲外東竺など当院の住持が、五山の中で学徳抜群の高僧に与えられ最高の名誉とされる「碩学禄」を授与されたこともあり、当院は、「建仁寺の学問面」の中核を担いました。

    さらに、知足院創建時より明治初期にかけて、歴代住持から数多くの建仁寺住持を輩出し、明治時代の新制度による建仁寺派の初代管長を、当院15世荊叟和尚が務めているなど、建仁寺にとって重要な僧侶を擁する寺院という性格も持ち合わせました。

    また、上記の東竺・荊叟両和尚に加え、13世高峰東晙と14世嗣堂東緝は天正8年(1537)に始められ幕末まで続く以酊菴に輪住しました。以酊庵とは、長崎の対馬にあった寺院の名前で、朝鮮との通交の役割をしていました。

    輪住する和尚は、2年の任期で、五山の中から碩徳のある代表的和尚が勤めており、外交文書の交信、朝鮮通信使の応接などが任務であり、この任を果たすことは、一代の栄誉でありました。

禁⽌事項・注意事項

座禅体験の英語での説明をご希望の場合は、20名以上の団体にて参加していただく必要があります。

バス駐車場はありません。近隣(東大路通りまたは、河端通り)で降車していただく形になります。

引用元

https://ryosokuin.com

基本情報

  • 名称
    両足院(りょうそくいん)
  • 所在地
    〒605-0811
    京都府京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591
  • 位置・海抜
    北緯34.9度、東経135.7度、海抜48.1m
  • 開閉門時間
    7:00~17:00
  • お問い合わせ先
  • 電話番号
  • ホームページ
  • SNS
  • 重要⽂化財有無
    あり

引用元

https://ryosokuin.com

境内施設

  • 方丈
    方丈とは、禅宗寺院建築で本堂、客殿、住職居室を兼ねるもので内陣、室中、礼の間、檀那の間、書院、衣鉢の間の6室からなる。 現在当院での方丈は、本堂としての機能、つまり法要を厳修するだけでなく、坐禅会が開催される場所でもあり、多聞会(勉強会)や学術的発表または美術品の展示にも使われている。
  • 大書院
    大書院とは、もとは、寺院僧侶の私室、書斎である。 現在は、学術研究の一時的研究室としてや法要の控室、大寄せの茶席、展示会場としてなど多様な用途で大書院は使用されている。 ガラス戸越しの書院前庭は、京都府の名勝庭園に指定される。池泉回遊式庭園。水月亭、臨池亭の茶室2軒は、この庭園の北側にある。
  • 水月亭(茶室)
    織田有楽斎好みの如庵(国宝)の写しとして大村家より明治43年に建てられた茶室である。2畳半台目。光を外から取り入れる工夫がされた有楽囲いの室内には、広く見せる三角形の鱗板があり、腰張りには中国の暦が配される。
  • 臨池亭(茶室)
    大村梅軒好みの茶室。6畳。高台寺にあった大村家の別荘の茶室を昭和元年に移築されたものである。
  • 唐門前庭
    通常非公開。高麗門(大門)をくぐって唐門までの方丈への参道であり、分岐の小径は、墓参道でもある。高麗門(大門)が開扉するのは、開山忌や大施餓鬼法要または、文化的催しなど年内で回数限られているのであまり鑑賞されることはない。 墓参者はこの参道を通って奥の墓地に辿り着く。
  • 閼伽井庭
    方丈と庫裡の中庭。閼伽(仏膳に供える水)を汲む井戸とその水を受ける水鉢がこの庭の象徴。三尊席が中心にあり、その手前に礼拝石と前述の水鉢と燈籠を配する。
  • 墓参道
    唐門前庭から分岐して草の様式の延べ段が方丈前を横切るように続く。奥には階段があり扉の奥に約300坪の墓地が広がる。南東には銀杏と欅の巨木があり、その周辺に緑雲苑という名の樹木葬地になっている。
  • 毘沙門堂
    本尊の毘沙門さんは、脇仏に閻魔大王、不動明王をおまつりしています。毘沙門天堂の狛犬は、寅。香炉や灯篭にも寅が、浮き彫りされていることから寅年生まれの方やご縁のある方がよくお参りされております。

ゆかりのある著名⼈

  • 林浄因
    りんじよういん
  • 末続平蔵 初代政直
    すえつぐまさなお しょだいへいぞう
    筑前国博多(福岡県福岡市博多)の出身 1546~1630 江戸時代初期の貿易商人・長崎代官。名は政直。妻は、飛騨高山城主・金森可重の娘。因みに妻の生母は美濃郡上藩主・遠藤慶隆の息女。遠藤家はかつて建仁寺霊泉院の大旦那であった。政直は、博多商人・末次興善の次男として生まれる。元亀2(1571)年の長崎開港とともに興善・政直親子も長崎に移る。そして、朱印船貿易でベトナム・タイなど幅広く貿易を行い、アジア全域に商圏を獲得した。後、元和5 (1619) 年には村山等安に次いで長崎代官となる。政直は、法名を「永安院殿通玄宗徹居士」といい、妻「永安院殿月桂永昌禅定尼」の墓と 二基並んで当院の墓地東北隅にある。平蔵の名前は、2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っている。2代平蔵に関しては、当院9世以成東規に隠元・木菴の墨蹟及び盆席などを寄付した目録と実物が現存しており、初代夫妻の墓と並んで当院に眠る。法名「皆春院昨非不干居士」。その後、末次平蔵(4代)茂朝の代にカンボジア密貿易が発覚し、一族のすべてが処罰された。また、末次一族は、長崎に九州唯一の建仁寺派・春徳寺を建立する。華嶽山春徳寺。臨済宗建仁寺派。寛永7 (1630)年、建仁寺三江紹益の法嗣・泰室清安開山
  • 三輪執斎
    みわ しっさい
    京都出身1669~1748名は希賢(まれよし)、字は善蔵、号は執斎、又躬耕廬ともいう。京都出身。江戸の佐藤直方の門に入り、朱子学を学ぶが、陽明学も学ぶ。直方没後は、下谷に家塾明倫堂を開き、子弟に陽明学を講義する。著書に『大学俗解』『孝経小解』『標註傳習録』四巻等、詩文集に『執斎雑著』四巻。洛北加茂に住み、大阪にも滞在し子弟を教育する。人となりは「柔和謙遜」の人であったと伝えている。なお、門弟の川田雄琴は、執斎の推挙で、伊予大洲藩主五代・加藤泰温の侍講となる。三輪執斎が両親の沢村自三夫妻の墓と自らの寿塔を建てたのは、当院12世東陵曇延の入寺した元文4 (1739)年の11月であった。
  • 白木屋祖 大村彦太郎 初代可全
    おおむら ひこたろう しょだいよしまさ
    近江国(滋賀県)出身 1638~1689 初代可全は、早くに父と死に別れ、近くの良躊寺(滋賀県長浜市下坂浜町)の法山和尚について学ぶ。彦太郎に商才があることを見抜いた和尚の勧めで、京で材木商をはじめ、やがて江 戸に出た。和尚の励ましで、辛抱強く働き、小間物の行商からやがて日本橋にささやかな店をもつまでになった。寛文2(1662)年に日本橋に新しく店を構え、積極的に呉服太物を扱った。(白木屋の創業年)可全の言葉「商いは高利をとらず、正直に良きものを売れ、末は繁盛」は、白木屋の創業以来の店則となる。 当院10世雲外東竺のもとに檀家になろうとして門をたたいたのは、貞享2年(1685)である。元禄2 (1689) 年1月20日、初代が54歳で没し、法号は「如翁道慈居士」とし、当院に墓を設けた。以後代々の一族は、先宝の側に葬られ、現在当院の墓地の約4分の1は同家関係の墓で占められている。 また、大村家は、ただの商人で終わらず、初代可全の関係から禅宗にも帰依し、従弟の禅僧・至道無難和尚を開山として江戸東北寺を援助するだけでなく、2代安全は、江戸市民のために、井戸の開削を行い、「白木屋の井戸」として、庶民の喉を潤した。6代目は京都における高山彦九郎を支援した。さらに明治期の大村彦太郎は、定家の山荘跡・厭離庵の荒廃さをなげき、茶室・時雨亭を復興した。 そして、当院には境内東北隅に、有楽斎好みの腰張席「水月亭」を寄付し、さらに昭和元年、高台寺にあった同家の茶席「臨池亭」を寄進。これを、水月亭の東辺に移建した。しかし、その「老舗 白木屋」も昭和42年に入り諸事情により「東急日本橋店」という名称に変えることになった、その東急日本橋店も1999年1月31日をもって閉店し、330年に及ぶ「白 木屋の歴史」が消えた。
  • 塩瀬家
    しおせや
    日本の饅頭の起源には1つに塩瀬家がある。1349年に龍山和尚と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたと言われている。両足院の墓地に昭和6(1931)年に建立された饅頭屋町合塔の碑文には、林浄因が饅頭屋町の始祖であり、その子孫が奈良と京都に住み、のちに愛知県三河の塩瀬村に住んだので塩 瀬と改称したなど、同家の歴史が記されている。 なお、昭和61(1986)年に中国に林浄因碑が立てられて以来、毎年10月初旬に碑の前で紅白饅頭2000個を配るという「饅頭祭」を続けている。
  • 藪内茶道
    やぶのうちさどう
    藪内流(やぶのうちりゅう)は茶道流派の一つである。千利休時代の茶道の本質を留めているという。これは武野紹鴎・千利休の侘び茶に古田織部の武家茶の影響を入れたものである。藪内の遠祖は、室町将軍・足利義政の同胞衆であり、初代は武野紹鴎の門下。兄弟子の千利休とは親交が深く、利休より相伝を受ける。 藪内家中興である五代藪内竹心は、当院10世雲外東竺の元に参禅しており、当院の書院前の作庭に携わったといわれる。また雲外和尚100歳の高寿に達した時、竹心はお祝いとして七言絶句と和歌に添えて銘「玉椿」の花入れを贈った。また竹心は、利休時代の茶道の本筋に立ち返るべきと論じている。藪内流の精神「正直清浄 礼和質朴」は竹心の言葉である。法号「竹心紹智居士」

引用元

https://ryosokuin.com

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アクセス

所在地

〒605-0811
京都府京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591


アクセス

京阪「祇園四条」駅下車、東へ信号2つめ、花見小路南へ突き当り徒歩7分
阪急「河原町」駅下車、徒歩10分
JR「京都」駅をご利用の方は、市バスをご利用ください。徒歩48分

JR京都駅より市バス 206系統・100系統
「四条京阪」下車、大和大路通りを南へ5分
「東山安井」下車、安井通りを西へ行き徒歩2~3分
「南座前」下車、徒歩10分
「祇園」下車、徒歩10分

引用元

https://ryosokuin.com